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家族のあり方と仏さまに参るということ。(法話)

昨日受けた本山布教使補の検定試験でお話させて頂いた内容をブログ用に書き直しました。

仏さまに参るというのは「世の中よくなりますように!」と願うことではありません。

テーマ「家族そろって仏さまに手をあわせ、頂いた命の尊さを喜びましょう。」

連日いろんな殺人事件のニュースが報道されています。

被害者はもちろんその家族もとても辛い思いをし、加害者の家族にとってもまた心痛めることになる殺人事件。

ニュースで流れている事件をみていると、お坊さんとしてなにか未然に防ぐとか、社会の役に立つようになれんもんかと思うのです。

自分の周りには起こっていないけれども、もしかしたらこの先起こるかもしれません。
自分に何ができるか考える・・・その前に。

まずは日本の社会は今どういった状況で、何が問題なのかを押さえておく必要がありますね。
報道を見ていますと、凶悪な事件は増える一方ではないかと思いがちです。

そう「感じている」ことが正しいのかどうか、まずは確認するべきだなと思いました。

現状の把握が大切である。

法務省の統計データとその報告書を見てみますと、1年にどのくらいの殺人事件が起こっているか分かります。

日本で殺人事件は1年にどのくらい起こっているかご存じでしょうか?

データを見てみますと、平成23年に起こった殺人事件は1051件。

前後数年1000件〜1100件あたりを推移しています。

では一番多い年は何年なのかというと、戦後の時代、昭和29年の3081件。これがピークで現在の3倍くらいの数起こっています。

ですから横ばいの時期はあるものの昭和29年からだんだんと件数は下がってきていているというのが現状です。

つまり、殺人事件のニュースがたくさん報道されて様々な事件が起こっているように見えて、実は殺人事件の件数自体は日本の社会でいえば減少傾向にあるといえます。

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しかし、注目すべき指標が。

統計データを見ていきますと、ひとつ注目する指標がありました。
52.2%

これ何の割合かわかりますか?

これは親族率という指標なのです。つまり加害者と被害者が家族である割合です。

1000件事件があったら520件という過半数を超えて「家族が家族を殺す」という事件が起こっているいうことです。こういう現実があることをおさえ、お坊さんが何か働きかけができるとしたらここやな!っと思ったわけです。

讃題(聖典からの引用)

阿闍世王は瞋怒(しんぬ)して
我母是賊(がもぜそく)としめしてぞ
無道に母を害せんと
つるぎをぬきてむかいける
浄土和讃・観経意

この和讃は仏説観無量寿経に説かれた王舎城の悲劇の一幕。
阿闍世(アジャセ)王子が父である頻婆娑羅王(びんばしゃらおう)を幽閉し、また母である韋提希夫人(いだいけぶにん)を殺そうとした物語のワンシーンです。
母親にむかって剣を振り向け、殺そうとする姿が描写されており、仏教では2000年以上前から、人間は「家族であっても親子であっても、切羽詰まれば親でも殺すという性質をもった存在である」ことが指摘されているということです。

王舎城の悲劇の物語は仏説観無量寿経に説かれています。

この本はお経が小説っぽい現代語訳がされており比較的読みやすいかと思いますので、仏説観無量寿経、仏説阿弥陀経にどんなことが書いてあるか読んでみたい方はぜひどうぞ。

家族という関係

家族という言葉にはあったかいとか信頼、安心、落ち着くとかそういう印象をお持ちの方が多いかもしれません。理想的にはそうあってほしいけれども、実際はその理想通りにはいかない現実があります。
ワイドショーでもよく見る嫁姑問題、夫婦の問題、親子の問題、兄弟の問題。
殺人事件までいかなくても、家族の関係性において大小様々なトラブルを抱えながら生活しているのが普通ではないでしょうか。
考えてみますと、そもそも今ご存命の方は

  • 戦中・戦後のもののない時代を生きた世代
  • 高度経済成長を生きた世代
  • ものがあふれ食べるに困らない世代

というように大雑把ではありますが分けられます。

時代によって社会の仕組みも制度も違うし育ってきた背景も違います。その人の役割や立場も違う人間が「家族」という枠組みに収まっているんですね。基本的には価値観がそれぞれが違ってあたり前、理解しあえないことだって何も不思議ではないのです。

家族そろって仏さまに手をあわせ、頂いた命の尊さを喜びましょう。

そこで大事になってくることが今日のお話のテーマです。

家族そろって仏さまに手をあわせる、ということはばらばらの価値観を持った人間が1つ同じ方向を向くということです。

家の仏壇で仏さまに手を合わせるのであれば自分のご先祖のことも思い返すでしょう。

1人の人間が世話になっている人ですら数えきれないのに、父・母・祖父・祖母・・・10代さかのぼれば1,024人のご先祖、そしてその人が生きることを支えたご縁ということを考えると数え切れない無数のご縁です。仏さまに手を合わせるということは、そういう「無限のはたらき」「おかげさま」の中で我々が今生かされているということに気づかされるということが大切なのです。

太古の昔から現在までの長い時間の中で存在する自分、そして自分がいなくなってもまた誰かのおかげさまとして未来に続いていく。

そういう大きな視点を共有することができれば、価値観が違うということがあっても大事な部分を理解し、認め合える関係が生まれてくるのではないでしょうか。

まとめ

私も大事。あなたも大事。

「考え方が違う」ということが認めあえる世界。

それぞれのいのちが無数の「おかげさま」によって成り立っている世界。

それぞれのいのちが尊重される世界。

殺人事件を防止する!!とかいきなりそういう大それたことができるのではないのです。

仏さまに手を合わせるというのは、世の中よくなってください!って願うことではなく、逆に仏さまの願いを聞き家族の中でこういう世界観を共有すること。

そして違いを認めあい、身近なところからいのちを尊重し大切にする生き方を実践にうつしていくことです。

これが社会を平和にすることにつながっていくのだと考え、お坊さんとして伝えていかねばならない!と強く思うことでございます。