「救われる」という言葉。
何かほっとするような、安心するような、あたたかく心地良いイメージを持つ言葉だと思うのですが、ぼんやりしていて具体的にどういうことか?と聞かれると、はっきり答えることは難しいと思います。
今日は「救われる」とはどういうことか?ということについて書いてみたいと思います。
「救われる」ってよくわかんない
「救われる」というと
- お金に困っている人→お金が手に入る。
- 恋人とけんかしている→仲直りする。
- 仕事がうまくいかない→突然注文が入りうまくいく。
まあ人生にはいろいろトラブルが起こって、それを解決したい場面がたくさんでてくるわけで、それがこういう風に具体的に問題が解決したら「救われた」と感じると思います。
しかし「救われる」=「お金が入る事」とか「救われる」=「仲直りする事」ではないですよね。
救われるとはどういうことか?
宮城顗(みやぎしずか)九州大谷短期大学の元学長先生の言葉を引用しますと、
救われるということは場所を給わること。
というようにおっしゃっています。
「救われる」とは「居場所ができる」ということ。
人間が生きていく中で「居場所」ということが問題になるわけですね。
最初の例をとってもお金が無いというのは、お金のあるなしが本当の問題ではないんです。
お金が必要なこの社会の仕組みの中で、お金が無いことで生きる居場所がなくなって困っているわけです。
逆に言うと、お金が無くても生きられる場所だったら生きていけるわけで、イケダハヤトさんの「まだ東京で消耗してるの?」ではないですが、東京で高所得・高支出、何のサービスを受けるにもお金が必要な仕組みの中で、お金が無いというのは大変居場所を確保しづらいことです。
さっさと田舎に移住して、お金の問題からはなれて新たな居場所を作るのもひとつの「救われる」手段だと思うのです。
我々は何が居場所をなくしているのか?という本質的な問題をとらえずに、足りない状態を埋めることで「救われる」ことを目指してしまいます。
物理的な問題の他にも
- 学校でいじめられて、クラスになじめない。
- 会社で成績が悪く、事務所に居づらい。
- 家庭の中でもけんかばかりで家に帰りたくない。
心が通じず仲間がいない状態、つまり居場所がないというのはつらいことですよね。
私という命が無視されている状態は何よりのストレスです。
力を発揮できない環境だったとしてもがんばってがんばってがんばりぬくことが美徳という風潮やプレッシャーがありますが、周りでそのことを強く押しつける人がいてもその人は人生の責任をとってはくれません。
「人生を有意義に過ごしたい」という目標があれば、それを実現する方法はいろいろ試してみればいいわけです。
学校を変わったり、会社を変わったり、手段をかえて挑めばいいのです。
自分が何に向いているか客観的な観点を得られるグッドポイント診断もおもしろいのでこちらもどうぞ。
念仏で「救われる」ということ
現実的な問題の解決ということと、もうひとつは「精神的な居場所」の解決ということもいきいきと生きるためには重要な問題です。
念仏したら救われるなんていうと、うさんくさいとか、そんなわけないやん、みたいなことになるんですが念仏をどのように受けとめているかということが重要なのです。
念仏をしても何も起こらなかった!という記事にも書きましたが、呪文のように「南無阿弥陀仏」というとお金が出てくるとか、全てがうまくいくということではありません。
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念仏をする人は同じ世界観を共有する仲間と同じ道を歩み、1人ではないんだという世界がひらかれてきます。
言い換えると、念仏の道を歩むものには浄土というあなたの居場所があるんですよという、「居場所がある」という安心に繋がっていきます。
老いも若いも男も女も関係無く、あなたがあなたのままでいられる、互いに尊重しあうという浄土の世界観が見いだされる中に、現実世界にも安心して生きられる世界がひらかれてくるわけです。
いろいろトラブルのある人生の中に、自分の生きる道や生き方がみつかるということ。
どんな境遇であれ、ここが私の居場所であるとはっきりわかること。
私が私で良かったといえる心になることが「救われる」ということなのです。