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仕事や役割を失ってからの人生の手強さ。

「仕事がある内は人生は楽なんよ。やることが無くなってから人間の値打ちが問われるんよ。」

94歳のおばあちゃんから聞いた言葉

母方の祖父母を訪ねて松山の高齢者施設に伺った時のこと。

祖母の部屋を訪ねて行った時に、祖母とその友人の方たちも廊下にでられていたので、そこに混ざって一緒にお話をさせていただきました。

以前NHKのおはよう日本で全国放送に取り上げていただいたときに、祖母の入っている施設内の友人の方達も一緒にご覧いただいていたそうで、初めてお目にかかった方なのですがお寺のこともフットバッグのこともご存じだったのですぐに打ち解けて話がはずみました。

やはりテレビの影響力ってのはすごいですね。

それからしばらく施設の中でどんな生活をしているか、施設内にどんな方がいるかなど楽しくお話をさせて頂いたのですが、その最後にこの言葉を聞かせて頂いたのです。

「仕事があるうちは人生楽なんよ、なんぼしんどい言うてもやることがあるから。
子育てでも仕事でもそれは作業やから、作業があったら人間楽なんよ。
でもほんまにしんどいんは仕事が無くなってからやで。
やることが無くなってからの方が人生は手強いで〜。
やることが無くなってから人間のほんまの値打ちがでてくるんよ、そこからがほんまにきついで〜。」

にこやかに話されておられましたが、何か胸をドンっと叩かれたような気持ちでした。

肩書きのない、生身の人間が残った時に

我々は生まれてからずっと、何かを足しながら成長していきます。

そして、社会の関係性の中からその人を表すいろいろな「肩書き」がついていくわけですね。

「会社員」「学生」「主婦」「ミュージシャン」「社長」なんでもいいんですが、「肩書き」があるということは、その役割があるということですね。

ぼくならば、細かいのはいろいろありますが、大きな役割でいえば「善照寺住職」「フットバッグプレイヤー」「親」などでしょうか。

しかし、これも不変なものではありません。

足を怪我したり体が動かなくなったら「フットバッグプレイヤー」は失われます。

目が見えなくなったり、声が出なくなったら「善照寺住職」の役割もままならなくなります。

子が成長したら「親」の役割もほとんどなくなるでしょう。

そういう「肩書き」や社会との関係性が全部無くなってしまって人間「三原貴嗣」が残った時に何ができるのか?

そんな問いに向き合ってきたお姿と、その言葉を目の当たりにして「ちゃんと考えながら生きなさいよ」と言われたような気がしました。

▼トレードマークの赤いチョッキを脱いでも、かわいさを失わないプーさん。

お寺参りは年寄りのもの、若い人は行く必要がない?

自分がどう生きるのか若い人には「役割」を選択できる可能性があるし、実際必要とされる場所がたくさんあります。目の前の仕事に責任もあるし、それをこなす必要もあります。

しかし年をとって退職したり、その必要とされる程度が少なくなってくると「私って何だ?私の人生って何だ?」という問いがリアルに感じられ、居場所を求めて悩むということが起こってきます。

その答えを求めることのひとつとして、お寺に参ったり仏教の話を聞こうという気持ちになる、ということがあるのでしょう。

お寺としては若い人にもお寺に来て、早めにそういう問題に対する受け止め方を学び、いうなれば予防接種をして欲しいと思っています。

しかし、そういう「問い」にリアルに直面してからでないと、仕事やお金に関わるセミナーは聞きに行けても、仏教の話を聞くということは優先順位が低くなるのも無理のないことかもしれませんが・・・。

そしてその94歳のおばあちゃんはこんなこともおっしゃっていました。

「この施設来て2年やけど、いろんな方がおられるし、その縁者の方にもすごい人らがおって、この年になっても学ばしてもらうことばっかりやわ。」と。

そして「あなたはお寺さんやから、たくさんの御門徒さんも抱えておるでしょう。その人らの支えになってあげてちょうだいよ。」

身の引き締まる思いで聞いておりました。

皆さん、「肩書き」が無くなった時に自分を支えるものちゃんとありますか?