自分が口に出してるのに「他力の念仏」って何やねん?!という声にお応えする歎異抄第8条。
短い文章ですが、ここでは他力の念仏とは何か?という本質に迫っています。
原文は最後に載せてありますので、そちらも読んでみてくださいね。
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LINE風歎異抄第8条
今日も唯円さんは親鸞聖人に聞きたいことがある様子。
俺のやる気に「再点火」したなっ?
つまり念仏も一緒で、念仏してる「自分のおかげ」じゃなくて、阿弥陀さまの方に力があるということなんよ。
そもそも「他力」って言葉は他人の力という意味ではなくて「阿弥陀さまの力」をさす言葉やしね。
やから、俺ら凡夫がするべき「他力の念仏」というのは自分がパワーアップするための修行でもないし、自分の行う「ええこと」でもなくて、阿弥陀さんの力をただただ信じる姿勢なわけよ。
やれ……やるんだ…唯円。
阿弥陀さまは………おまえを…見…守って……いるぜ……
第8条のポイント
もともと念仏というのは仏を念ずる、ということで「私が修める行」だったのです。
しかし、親鸞聖人がおっしゃっているのはその「私の修める行」ということの不確かさを指摘しています。
お念仏が修行であり、善行であったなら、先ほどの病気の例えでいうと自分の努力だけで病気が治るということです。
しかし、本来的に私が抱えている「煩悩」という病気の深さをよくよく考えると、ちょっとやそっと自分が体に良いことをしたり努力したところで治るようなもんじゃないんだということをおっしゃっています。
根本的に治療可能な阿弥陀さまの力を頼りにするしかない、そこには薬をのんだ「俺のおかげ!」みたいな自分の力を誇る気持ちは微塵も無く、治せる方に完全におまかせするしかない、この道しか自分が治る方法はないという選び取りが読み取れます。
お医者さんに指示されても、薬の量を勝手に減らしたり、民間療法やってみたり、「いいこと」だと思って自己判断で指示されたことと違うことをやっちゃう人ってたくさんいますよね。
専門の人が「まかせなさいよ」ということであっても、それを聞いて信じ切れない人間の迷いの深さも同時にここでは指摘されているといえるでしょう。
歎異抄第8条原文
念仏は行者のために、非行・非善なり。
わがはからひにて行ずるにあらざれば、非行といふ。
わがはからひにてつくる善にもあらざれば、非善といふ。
ひとへに他力にして自力をはなれたるゆゑに、行者のためには非行・非善なりと云々。(真宗聖典P836)
参考文献
途中のやり取りがわからない方はこれも読んで下さい。名作です。