[LINEでわかる歎異抄]第9条 沸き起こらない、浄土に行きたい気持ち

歎異抄9条では唯円くん自身が悩んでいることを親鸞聖人に相談します。

浄土がいくらいいところだと聞いても1mmもそこに行きたいという気持ちが起こらない唯円くん。

こんなことを聞いたら「学びが足りない!」なんて怒られるんじゃないかと思いつつ、親鸞聖人に思いのたけをぶつけてみるの唯円くんなのでした。

歎異抄第9条をLINE風にしてみた。

唯円

ちょっと聞きたいことがあるんですけど…

親鸞

どうしたの?

唯円

浄土の教えでは念仏して阿弥陀さんに救われて浄土に行くっていうじゃないですか?

親鸞

そうやね。

唯円

浄土ってめっちゃええとこなんですよね?

親鸞

たぶんそうやと思うよ。

唯円

自分、温泉とかやったらめっちゃ行きたいな〜と思うんですよ。

マジでめっちゃテンションあがるんですよ。

親鸞

そんなに好きなのw

唯円

そうなんです。

それに比べて、浄土がええとこって話を聞いて、頭でそうなんだろうなとわかってるんですよ。

ても全然テンション上がらへんし、はよ行きたいわ〜!って気持ちも全然でてこないんですけど、これどういうことなんでしょ??

親鸞

俺もそうやったし、そんなもんやで。

唯円

え?

親鸞

え?

唯円

ほんとですか?

親鸞

まじまじ。俺もそれ不思議やな〜って思ってたんよ。

唯円

そんな答えが返ってくるとは思ってませんでした。

どういうことなんですか??

親鸞

いや、自分もおんなじやったな〜と思って。

ほんまやったら、

親鸞

ィィィイヤッホォーウ!!

親鸞

・・・って、感じやん?

親鸞

やけど、こんな気持ちがひとっつも起こってこんからこそ、逆に浄土へ行けるのが確実なんちゃうかな〜思って。

唯円

?????

唯円
  1. 念仏する
  2. 阿弥陀さんの力がこっちにとどく
  3. 浄土へ行ける(確信)
  4. わーい♪

ってことじゃないんですか??

やのに、念仏しても嬉しい気持ちが起こってこないのは、まだまだ本気の本気で求めてないからですかね??

親鸞

ん〜、そういうことではなくて、ほんまは喜ばないかんところなんやけど、喜べんってのは「煩悩」があるからなんや。

唯円

煩悩??

親鸞

そう。

普通やったら「喜べんなんて信心が足りん!」→「そんなのでは浄土へ行けん」ってことをみんな言いそうやろ?

唯円

普通そうですよねえ・・・なのでわからなくて困ってるんですが。

親鸞

俺らが頼りにしている阿弥陀さんって仏さまのメインターゲットは、煩悩を捨て去れんどうしようもないヤツらなんよ。

そんなヤツこそ助けたろ〜って思ってくれてるんや。

しかも、俺らがその煩悩を捨て去れへんってことも全部わかっとる。

唯円

と、いうことは・・・・?

親鸞

念仏の教えに出会ってるのに、急いで浄土へ行きたいとも思っとらん煩悩の固まりみたいなヤツ、そいつらこそなんとかしたらなあかん!!と思って下さっておるということや。

唯円

なるほど!!

親鸞

そういうわけなんで、念仏の教えってのは煩悩捨て去れへん俺らみたいなもんのためにあるってことが、より確かにわかるってもんよね。

唯円

いや〜深いっすね。

親鸞

こっちの世界も結構いろいろあって大変やんか?

親鸞

病気になるし、なったらそのまま死ぬんじゃないかって思うし、それで浄土に行くならそれでええはずなのに死にたくないって思うやん?

やっぱこっちの世界に長いことおって、なんぼ浄土って世界は安らかでええとこって聞いても慣れとる世界がやっぱええと思ってしまうやん。

そのぐらい煩悩ってのは根が深い問題なんよ。

唯円

そうですよねぇ

親鸞

まあなごり惜しくても、力尽きたときそのうち行くんやから、それでええんよ。

なんも急いでいくことはないで。

親鸞

ていうか、むしろ念仏の教え聞いて浄土すげ〜!すぐにでも行きたいわ〜!!ってなるヤツの方がどうかしとることない??

唯円

そうですねえ、正直なところそんな風に思えませんもん。

親鸞

やろ?

親鸞

何回も教えを聞いても「浄土行きたいわ〜」という気持ちが起こらんのは、一見教えがわかっておらん、「いかんこと」のように見えるやん?

唯円

はい

親鸞

やけど、教えを頂いたからこそ、そんな心がわき起こってこん、煩悩を捨てきれへん自分が見えてきたってことちゃう??

唯円

それはそうかもです。

親鸞

やから、喜べないという自分の姿がわかったらそれをなげくんじゃなくて、そんな自分こそ絶対行けるタイプやん!って思ったらええんちゃう?

唯円

なるほど、よくわかりました。

唯円

いや〜ありがとうございます、お時間とらせてすみません。

親鸞

ええんやで。

親鸞

南無阿弥陀仏

唯円

南無阿弥陀仏

親鸞聖人のすごいところ

一般的な宗教、そして宗教家のイメージでいうと教えを説いている方が、「いや〜自分もよろこぶ心が起こってこないんよ。」なんて言えないですよね。

普通なら一生懸命やってるのに、どこかで「信じられない」「よろこびの心がおこらない」なんて自分の心のノイズ(煩悩)に気づいた時には次のどれかになると思うんですよね。

  1. まだまだ信心が足りないと、さらに修行にはげむ。
  2. より熱心に信じ込むことで、見なかったことにする。
  3. ごまかす

それに対して親鸞聖人は

親鸞
そういう迷いはあるのが普通やし、なくなるもんやないんやで

という実に冷静に、人間の性質をごまかさず観察された方なんです。

仏教というのは煩悩を滅して行く道です。

しかし、実際に修行にはげんで自らの力で煩悩を完全に滅する事ができる人はどのくらいいるのでしょうか?

できる人はそれでもいいのですが、ほとんどの場合そうではないでしょう。

突き詰めて考えれば、人間というのは死ぬまで執着・愛欲・未練を抱えてしか生きることができない存在なんだということがしっかりとおさえられていて、なおかつそのようにしか生きられないものに開かれた仏道があるという道を示してくださったのです。

他の条にも興味が出た方はLINEわかる歎異抄シリーズをまとめたページもぜひどうぞ!

歎異抄第9条(原文)

 念仏申し候へども、踊躍歓喜(ゆやくかんぎ)のこころおろそかに候ふこと、またいそぎ浄土へまゐりたきこころに候はぬは、いかにと候ふべきことにて候ふやらんと、申しいれて候ひしかば、親鸞もこの不審(ふしん)ありつるに、唯円房(ゆいえんぼう)おなじこころにてありけり。

よくよく案じみれば、天にをどり地にをどるほどによろこぶべきことを、よろこばぬにて、いよいよ往生は一定とおもひたまふなり。

よろこぶべきこころをおさへて、よろこばざるは煩悩の所為(しょい)なり。

しかるに仏かねてしろしめして、煩悩具足(ぼんのうぐそく)の凡夫と仰せられたることなれば、他力の悲願はかくのごとし、われらがためなりけりとしられて、いよいよたのもしくおぼゆるなり。

また浄土へいそぎまゐりたきこころのなくて、いささか所労(しょろう)のこともあれば、死なんずるやらんとこころぼそくおぼゆることも、煩悩の所為なり。

久遠劫(くおんごう)よりいままで流転(るてん)せる苦悩の旧里(きゅうり)はすてがたく、いまだ生まれざる安養浄土はこひしからず候こと、まことによくよく煩悩の興盛(こうじょう)に候ふにこそ。

なごりをしくおもへども、娑婆(しゃば)の縁尽きて、ちからなくしてをはるときに、かの土へはまいるべきなり。

いそぎまいりたきこころなきものを、ことにあはれみたまふなり。

これにつけてこそ、いよいよ大悲願はたのもしく、往生は決定(けつじょう)と存じ候へ。

踊躍歓喜(ゆやくかんぎ)のこころもあり、いそぎ浄土へもまゐりたく候はんには、煩悩のなきやらんと、あやしく候ひなましと云々。 真宗聖典P836

参考文献