「念仏だけで往生する」なんて言われても、普通はなかなか確信が持てないわけですね。
ある時は信じられるけど、ある時はそんな気にならない。
頭ではわかっていても、周りの人に何か言われたらすぐに迷ってしまう弱さを人間は持っています。
人間はそういう「心のふらつき」が起こるんですね。
親鸞聖人が京都に戻られた後、関東では様々な教えや解釈が飛び交い、関東の門弟たちはもう一度親鸞聖人から本当のところを聞きたいわけです。
歎異抄第2条には念仏の道が正しいことを親鸞聖人に保証してもらいたい!
その一心で関東から京都まで命がけの旅をしてきた弟子達と親鸞のやり取りの様子が描かれています。
タップできる目次
LINEでわかる歎異抄第2条
親鸞聖人に、ど〜っっっっっっしても聞きたいことがありましてっ!
ほんとに念仏する以外、他に何か秘密とか教えとかないんですか?!
そういうつもりなら、奈良とか比叡山とかに詳しい人たくさんいるからそっちに聞きに行ったほうがええよ。
ほんとに、ほんとにないんですね!?!
自分にはお師匠さまに法然上人って方がおられたんやけど・・・
それを、言われたとおりそのまんま信じておる以外、他にはな〜んにもない。
もしかしたら念仏して地獄におちるかもしれへんよ。
じゃあ何で念仏で助かるかどうかも全然わからへんのに、なんでそんなに信じられるんですか?!
もうね、俺昔っからめっちゃ修行してきたわけよ。
比叡山でも過ごしたし、そりゃあもうアホみたいに修行と勉強してたわけ。
そんなちゃんとできてないハンパもんの俺の行き先なんて、地獄行きなん間違いなしやわ。
「あんた地獄におちるわよ〜〜!」
みたいな。
自分の修行で往生するのは無理!!
ってはっきりわかってるから、法然上人がおっしゃった「念仏して浄土にまいる」以外の選択肢はもう考えられないわけ。
肝のすわり方が違う。。。
※善導は中国の僧侶で西暦600年代の人
※法然は日本の僧侶で西暦1100年代後半ごろの人
→それを解釈した善導さんの言うてることもほんと
→さらにそれを学んだ法然師匠のいうこともほんとのことのはず。
どう考えても自分にとってはこの念仏の道しかないということ。
ただ念仏の道を歩まれた先人の教えを聞くという以外ないというこっちゃね。
…しかし、よくわかりましたっ!!
命がけできたかいがあった・・・!
歎異抄第2条まとめ
関東から京都まで極楽往生の道を聞きに行こうとするレベルのお弟子さんたちなら、真宗の教えの要である念仏するということ以外ないという事は重々わかっていたはずです。
しかしながら、頭でわかっていても不安がぬぐい去れない。
親鸞聖人にその道が正しいということを保証してもらいたいという気持ちが起こるぐらい、信心という問題は難しいのです。
そしてこの条を読むにあたって、もうひとつ注意すべき事があります。
それはこの条は盲信を勧めているのではないということです。
この条にでてくる親鸞聖人の姿勢は、読み方によっては無自覚に盲信しているように読んでしまう方もいるかもしれません。
犯罪しろと言ったらするのか?!
みたいなことを考える方もいるかもしれませんが、この条ではそういう事を言っているのではありませんよ。
ではなくて、どうやっても煩悩や欲望を捨て去ることができない自分を恥じ、悪をおかしてしか生きられないという自分自身への非常に深い内省があることを見落としてはいけません。
宗教というと教祖の教えを弟子に強制したり、洗脳したりというイメージがあるかもしれませんが、この条からはそのような香りはしませんよね。
弟子に向かってどのような心のあり方かを告げることによって、念仏の教えへの誠実なうなずきを呼び起こしています。
念仏の教えは師が弟子に押しつけ・強制するものではなく、あくまで主体的な選びとりの問題であることが表れています。
歎異抄第2条原文
おのおのの十余箇国(じゅうよかこく)のさかひをこえて、身命(しんみょう)をかへりみずして、たづねきたらしめたまふ御こころざし、ひとへに往生極楽のみちを問ひきかんがためなり。
しかるに念仏よりほかに往生のみちをも存知(ぞんぢ)し、また法文等(ほうもんとう)をもししりたるらんと、こころにくくおぼしめしておはしましてはんべらんは、おほきなるあやまりなり。
もししからば、南都北嶺(なんとほくれい)にもゆゆしき学生(がくしょう)たちおはく座(おわ)せられて候ふなれば、かのひとにもあひたてまつりて、往生の要よくよくきかるべきなり。
親鸞におきては、ただ念仏して、弥陀にたすけられまゐらすべしと、よきひと(法然)の仰せをかぶりて、信ずるほかに別の子細(しさい)なきなり。
念仏は、まことに浄土に生るるたねにてやはんべらん、また地獄におつべき業にてやはんべるらん、総じてもつて存知せざるなり。
たとひ法然上人にすかされまゐらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからず候ふ。
そのゆゑは、自余の行はげみて仏に成るべかりける身が、念仏を申して地獄にもおちて候はばこそ、すかされたてまつりてといふ後悔も候はめ。
いづれの行もおよびがたき身なれば、とても地獄は一定(いちじょう)すみかぞかし。
弥陀の本願まことにおはしまさば、釈尊の説教虚言なるべからず。仏説まことにおはしまさば、善導の御釈虚言(おんしゃくきょごん)したまふべからず。
善導の御釈まことならば、法然の仰せそらごとならんや。
法然の仰せまことならば、親鸞が申すむね、またもつてむなしかるべからず候ふか。
詮(せん)ずるところ、愚身(ぐしん)の信心におきてはかくのごとし。
このうへは、念仏をとりて信じたてまつらんとも、またすてんとも、面々の御はからひなりと云々。
真宗聖典P832
他の条にも興味がでた方はLINEでわかる歎異抄をご覧くださいね!
よ、ようやく京都に着いた・・・。