こんにちは、お坊さんブロガーのへんも(@henmority)です。
歎異抄第4条では「慈悲」について親鸞聖人が語られています。
人間は人に優しくしたり、いたわったりするけれどもその人間のやる慈悲には限界があることが指摘されています。
中途半端な「ええこと」では終わらない完全な慈悲とは一体何か?という本質にせまっている条です。
LINEでわかる歎異抄第4条
3塁のランナーをかえすために外野にでかいフライを打ち上げる・・・・
もうええわ!
唯円くん、「慈悲」ってわかる?
で、今日はこの慈悲には2種類あるよって話なんやわ。
- 聖道門の慈悲
- 浄土門の慈悲
この2種類があるんや。
この聖道門の慈悲は一見わかりやすいけど、どうやっても「限界がある」ってことなんよ。
例えば、唯円くんの目の前におなかすいてる人がいるとするよね?
で、唯円くんの「いい行い」でその人は助かったとする。
村中の困ってる人全員に分けてあげられる?
でも全員助けるということが目的なら、そのぐらい厳しい道が聖道門の道なのよ。
まずは念仏して阿弥陀さまに浄土に往生させてもらって仏になるんよ。
そして、その仏のスーパーパワーを得てこの世に還ってきて、自由自在に助けつくすっていうのが「浄土の慈悲」なのだ!
浄土に行って還ってくるってのは「悟空が界王星で修行して強くなって帰ってくる」とか、「ヤードラット星で瞬間移動覚えて帰ってくる」みたいなイメージとはちょっと意味が違うんだよね。
これは仏道が自分の人生だけで完結するのではなく、「命が尽きたあとも人々の指針になるような生き様になる」というのが現実的にわかりやすい表現かなと思うの。
俺にはお師匠さまの法然上人がおられたでしょ?
あの方は本当にお念仏が大事だという生き方を見せてくださった方なんよね。
その姿をみて、まさしく仏の力が働いておられた方だと俺は思ってるの。
「私は仏の力を得て浄土の世界から舞い戻ったのだ、フハハハハハ〜ッ!」
なんて言わないし、本人はそんなつもり微塵もない。
でも、俺にとったらそうとしか思えないぐらい、阿弥陀さまの教えを法然上人はその生き様を通して教えてくれたと思ってるわけ。
まさしくこの方こそ阿弥陀様の世界に生まれ、仏のスーパーパワーを得て、この親鸞に教えを伝えに現世に来て下さった仏さまに違いない〜!ってね。
じゃあ人助けはしない方がいいってことですかね?
ボランティアとか人を助けたりをやっちゃダメとか、そんなの意味ないよ、なんてことを言ってるわけではないんやで。
目の前の人を助けたとか、助けなかったとか、それは浄土へ参らせてもらうことの「条件ではない」ということや。
しかしそこに人間の傲慢さがでるんだよって話なんや。
例えば、自分が大けがして今にも死にそうな時に、目の前でおなか空かせてる人がいるからといって何か食事を用意してあげないのは罪になる?
そんな時、これは良いことだとか、これは無理だから仕方ない、なんて判断は全て自分の都合でライン引きしてしまってるでしょ?
どうやっても自己中心的なものの見方から離れられないから、そういう善悪の判断から離れる道はやはり念仏して仏となる以外ないということやね。
自分が人を助けたら「ええことした」って思いますけど、それも全部「自分フィルター」を通った自分の判断ですものね。
本当に「ええこと」かどうかはわからないと。
なので、世間的に「ええこと」を超えた理解の仕方をするところがいっぱいあるんよね。
そういうわけで、今回の話はすごくわかりにくいかもしれないけど、徹底した慈悲ということは念仏しかないということになるわけだ。
歎異抄第4条まとめ
ここでは慈悲ということを中心に、人間の本質を浮き彫りにしています。
- 人間が完全な慈悲を徹底することの難しさ。
- 自分自身が「いいいこと」をしているという、自己中心的な善悪判断から離れることの難しさ。
- 他者の悲しみが自分の悲しみとなるような、ありのまま物事を見ることの難しさ。
こういう事を指摘すると「ええことしよるんやから、別にかまわんやんか!」という反応をされる方もいますが、どこまでいっても自分だけの善悪判断でしかありませんし、自己をかえりみる姿に欠けています。
そういった善悪判断をよりどころにすると、好きな人や自分に都合のいい場合は助けられるけど、嫌いな人や敵対する人にも同じように悲しみをわかちあうことは難しいかもしれません。
本当に人を救うということに挑むとしたならば、その不可能性や自分の力の無さに打ちのめされるような姿になるのではないでしょうか。
損得とか自他という隔たりを超えた、本当の意味で生きとし生けるものに「慈悲」の心を持つということの意味がこの条では説かれているのです。
他の条にも興味が出た方はLINEでわかる歎異抄シリーズをまとめたページもぜひどうぞ!
歎異抄第4条原文
慈悲に聖道(しょうどう)・浄土のかはりめあり。
聖道の慈悲といふは、ものをあはれみ、かなしみ、はぐくむなり。
しかれども、おもふがごとくたすけとぐること、きはめてありがたし。
浄土の慈悲といふは、念仏して、いそぎ仏に成りて、大慈大悲心をもつて、おもふがごとく衆生を利益するをいふべきなり。
今生に、いかにいとほし不便とおもふとも、存知のごとくたすけがたければ、この慈悲始終なし。
しかれば念仏申すのみぞ、すゑとほりたる大慈悲心にて候ふべきと云々。(真宗聖典P834)