この歎異抄第7条では念仏をして生きるということの力強さ、そしてただ阿弥陀仏を頼りにするということでどのような生き方になるのかということが書かれています。
LINEでわかる歎異抄第7条
親鸞聖人は唯円くんに無碍の一道ということを伝えたいようです。
物忌みってのはもともと不吉なこと避けるため、つまりいろんなバチとかタタリとか悪霊とかそういうのを避けようと思って、迷信とか俗信を気にしたりすることなんや。
世間の人は、いちいちいろんなこと気にするやん?
例えば厄年とか。
▼厄年について書いた記事です。
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理由はわからんけど、不吉な事は避けたいから回避策になるのならやっておこうって感じやろ?
▼49日が3ヶ月またがることについての記事です。
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- 迷信は信じない。
- お守りを当てにしない。
- 加持祈祷をしない。
- 世間で言われる縁起を担ぐようなことも一切しない。
から、浄土真宗の門徒は世間一般常識の「物忌みを知らん」が転じて「もの知らず」って言われるようになったわけや。
そのぐらい自分のスタンスがはっきりしているってことやね。
みんなどうでもええことにめっちゃ振り回されるけど、そういうの一切ないやんか?
念仏をする人を妨げるものはないし、すすむべき道はただ1つとはっきりしているということやね。
自分がたよりにしている阿弥陀さまは、自分のするちょっとええ事とか、悪いこととかそういうこまかいことは超越したスーパーすごい力なわけ。
そのお力を信じて進むものの生き方は揺るがんわけ。
てーてーてーててーてーててーてー♪みたいな。
クリボーからしたら、うおー全然邪魔できへんやん!ポコポコポコ〜!みたいな。
「念仏だけ、そして阿弥陀さまだけが大事」
って言うてるけど、だからといって他の教え信じてる人とか神様とかを粗雑に扱ったり、けなしたりしてええということではないんやで。
歎異抄第7条まとめ
この条では浄土真宗の教えを歩む者が何にも妨げられない道を歩む様を通して力強く人生を生き抜く姿が示されています。
人生を歩む中に苦悩や挫折はつきもので、自分が思った通りの人生というのはなかなか歩めるものではありません。
そこで、何か不都合が起こらないように、自分に都合よくサポートしてくれそうなものを人は好むわけです。
あっちの神様が健康にいいといえば参りにいき、あそこのお札がいいと聞けばもらいに行き・・・
世間的にはそうやっていろんなところへお参りにいくことを「信心深い」というわけですが、よくよく考えて見るとそれは別に信心が深いんじゃなくて「浅く、浮気性」なわけですよね。
スタンスがはっきりしないどころか、自分の欲求通りに都合良くサポートしてくれるところを探しているだけなのです。
そうやっていろんなところへ神頼みしたりお祓いしたり、お守りやお札なんかで人生の困難を避けようと武装するわけですが、結局のところ困難を避けきれるもんじゃありません。
交通安全のお守りを持っていたら事故が起こらないのなら、自動車メーカーはエアバッグより先に「お守り」を標準装備にするべきなんです。
100%効くならそういうことでしょう。
まあ気休めで持ってたらいいなんていう人も多いと思いますが、本当のことがわからず迷う姿を人間は持っているということですね。
お念仏は気休めじゃない。
お念仏をして生きるということは、心の弱い人が仏を頼って消極的に生きるということとは全く違います。
「阿弥陀仏の教えを聞き、お念仏を大事に生きる。」という生き方は困難を避けるための気休めではないわけです。
いくら念仏しても、嫌なことや困難は起こってきます。
しかし、ものの見方が変わってくるわけですね。
様々な困難が真実を学ぶための機会となり、避けたいと思っていた困難が困難じゃなくなっていくという力強い生き方なのです。
何を大事にすべきかということを見極め、自分の生きるスタンスがしっかり定まるということが「無碍の一道」という言葉で示されています。
他の条も解説していますので、LINEでわかる歎異抄のカテゴリーからいろいろ読んでみてくださいね!
歎異抄7条原文
念仏者は無礙(むげ)の一道なり。
そのいはれいかんとならば、信心の行者には天神・地祗(じぎ)も敬伏し、魔界・外道も障碍(しょうげ)することなし。
罪悪も業報を感ずることあたはず、諸善もおよぶことなきゆゑなりと云々。
(真宗聖典P836)