昨日の郡家興正寺別院の骨仏慶讃法要で記念法話を頂いた一楽真先生の書籍を紹介。
人間は何を求めているのか〜阿闍世の生き方を通して考える〜
仏説観無量寿経というお経に出てくる「王舎城の悲劇」という物語の登場人物「阿闍世(アジャセ)」。
この阿闍世の生き方やお釈迦さまの弟子の姿を通して、現代に生きる我々が仏教にであうというのはどういうことか、法に遇うということがどう「救い」ということになっていくのかを非常に丁寧に教えてくださっています。
講演を本にまとめてある形なのでiphoneを使って車の中で読書という形でも聞きやすい本です。ただ弟子の舎利弗(しゃりほつ)の弗という字を、たぶん「$」ドルと判定してシャリドルなんて読むから最初ちょっと意味がわからないところもありましたが・・・。)
教えに遇うことの難しさ
仏教離れということが盛んに言われる現代において、仏教の教えが心に入るということがなかなか難しい時代・・・というような言い方はよくされますが、これは現代だけの問題ではないんですね。
仏教の教えは誰もに開かれているのに、「誰しもが教えに遇えるとは限らない」という課題はお釈迦さま本人がおられる時代からありました。
お釈迦様と直接会って話を聞くことができる状態にあったのに、お釈迦さまのことばの真意を聞けなかったり、お釈迦様のもとから去っていったりした3人の弟子の姿を取り上げて、教えに遇うということの難しさが説かれています。
今まで仏教の本を読んだことがない人の中には「法に遇う」なんて書き方自体に嫌悪感とか、うさんくささみたいなものを感じる方もおられるかもしれません。ぼくも最初はなんかその宗教的な言い回しに何か距離をおきたくなる感じをもっていました。
ですので、言い換えると「ものの見方や考え方を学ぶ」というフラットな感じの方が読後感として適当かもしれません。
自分の考えだけを頼りにすると・・・
現代社会で普通に生活していると「自分の考え、自分の感覚、自分のスタイル」をもつことが重要だと強調されることがあります。
しかし「私の考え」を強調するあまり、自分の見えてない・知らないことの中にも大事な事はいっぱいあるということが抜け落ちたり、過去から未来につながる時間軸の中でどういう意味をもつのかという大局的な視点が持てないという問題も同時に抱えることになります。
仏教を学ぶというのはその教えの型にはまって盲目的になることではありません。
どうやっても短絡的で主観的な判断基準でしか生きられない人間に、どのように物事をとらえて生きるべきか?という新たな視点が備わるという感じでしょうか。
その学びによって物事がよく見え、自分の姿・ありさまということがはっきりしてくるという性質をもっています。
自分の人生をめちゃめちゃにしたいと思って生まれてくる人はないわけです。せっかく頂いたいのち。これを満足して生ききって生きたい。あるいは後悔のない人生を送りたいと。こういうことを誰だって思っていきていると思います。しかし、今日お話申し上げる阿闍世は、自分の幸せを願って選んだことが、かえって自分を苦しめるというようなことになっていく訳です。
我々が自分の考えを信じてよかれと思ってやっていることが、逆に自分を苦しめることになるような状況は往々にして起こるわけです。
阿闍世は自分の思うような人生を歩むために、その邪魔者となる父や母を殺そうとするわけですが、そのことがまた阿闍世自身を苦しめるということになっていきます。
都合の悪いこと、自分の気に入らないものを排除して行くことが人生の幸福につながる道ではなく、いかに苦しいことや辛いことも含めて自分の人生を受け止めていけるようになるのか。
仏教の教えに出会って阿闍世の姿や心が変化していく様子から、仏教が私達の心に対してどのように作用するのかということが読み進めるうちに明らかになっていきます。
何回も言いますが、洗脳とかそういうことではないですよ。ひとつの学びです。
人間は何を求めているのか。
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