なかなか好評だった歎異抄第9条をLINE風にしてみた。
前作の評判が良かったので、続いて歎異抄第6条も作ってみました。
原文では弟子の唯円が「親鸞聖人はこうおっしゃってたよ」というように書いてありますので、実際には2人の「やり取り」ではありません。
ですが、もしLINEしてたらシリーズなので2人で会話している感じにして意味がわかるよう書き下しました。
この条は親鸞聖人が弟子というものについてどういう立場で考えていたのかがよくわかる箇所です。
最後に原文も載せてありますので、意味を想像しながら読んでみてくださいね。
LINE風歎異抄第6条
新喜劇みたいに人のこと呼ぶのはw
勝手に師匠と思ってくれてるのはそれはそれでいいけど、こっちは自分が教えた弟子だとは思っとらん、ということや。
謙虚に生きるということ
念仏の道を歩むということを一言でいうならば、どこまでも「謙虚に生きる」ということです。
人間は知れば知るほど、思い上がり、傲慢になって「偉く」なっていきます。
特に師匠や先生なんて呼ばれ続けてたら「えらもんさん」一直線ですね。
ところが親鸞聖人の態度というのは、知識もものすごくあるのに
という立場をとっておられます。
ですから、親鸞聖人は門人を呼ぶときに仲間という意味の同朋(どうぼう)、同行(どうぎょう)に「御」をつけて「御同朋、御同行」と呼んでいたそうです。
なんて言い方とは全然ちがいますね。
念仏の道は知らず知らず「えらもんさん」になってしまうわが身の危うさに気づき、頭が下がっていく世界。
みんな等しく仏の弟子であって「偉くなっていく道」ではないんやで、ということを親鸞聖人はおっしゃっています。
他の条にも興味が出た方はLINEわかる歎異抄シリーズをまとめたページもぜひどうぞ!
歎異抄6条原文
専修(せんじゅう)念仏のともがらの、わが弟子、ひとの弟子という相論の候ふらんこと、もつてのほかの子細なり。
親鸞は弟子一人(いちにん)ももたず候ふ。
そのゆゑは、わがはからひにて、ひとに念仏を申させ候はばこそ、弟子にても候はめ。
弥陀の御もよほしにあずかつて念仏申し候ふひとを、わが弟子と申すこと、きはめたる荒涼(こうりょう)のことなり。
つくべき縁あればともなひ、はなるべき縁あればはなるることのあるをも、師をそむきて、ひとにつれて念仏すれば、往生すべからざるものなりなんどいふこと、不可説なり。如来よりたまはりたる信心を、わがものがほに、とりかへさんと申すにや。
かへすがへすもあるべからざることなり。
自然(じねん)のことわりにあいかなはば、仏恩をもしり、また師の恩をもしるべきなりと云々。(真宗聖典注釈版P835)