こんにちは、お坊さんブロガーのへんも(@henmority)です。
お坊さんYouTuberとして活躍する武田正文さんと、2022年に真宗山元派で得度されたわかしんさんこと若新雄純さん(法名・釋諦純)のネット対談が開かれました。
その名も「若新雄純さんと仏教の未来を語る!!」
おふたりの対談を聴講して感じた興奮などを書留めておこうと思います。
若新さんは慶應義塾大学の特任准教授で、いろんなメディアでコメンテーターをしたり、プロデューサーをしたり・・・と多種多様なお仕事をされています。(Wikipedia)
ぼくもAbema TVなどでそのご活躍を目にしていました。
その現代的文化人として最先端で活躍される若新さんが浄土真宗の僧侶となったということをきっかけにこの対談が開かれました。
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対談を見たあとしばらく寝付けなかった
2022年2月16日21:30に始まった対談は予定時刻を軽く超過し、最終的には23:30を超える長丁場の対談イベントに。
それぐらい盛り上がった良いイベントでした。
対談が終わって、さあ寝ようと思ったものの、なんとも言えない興奮状態がさめず、これが寝るに寝られない。
頭の中では対談の中ででてきた言葉や、これからのお寺のことや、さまざまなアイデアがぐるぐると駆けめぐり、どうにも寝付けそうにありませんでした。
とはいえ、なんとか気持ちをおさめて寝るのは寝たんですけど。
寝たんかい。
とにかく、その時頭を巡っていたことの一部を自分のメモとして書き留めておこうと思います。
壁を超える出来事
武田さんとわかしんさんの対談を聴講していた参加者のうち、8割程度は僧侶だったようです。
この僧侶の参加率の高さの要因は、僧侶の世界や伝統的仏教界の方からはなかなか突破し難い壁に風穴をあけてくださったような感覚があったからではないかと思います。
実際ぼくもそのように感じていました。
僧侶の世界と現代人の世界
「僧侶の世界と現代人の世界」と2つを対立的に書いちゃうこと自体がナンセンスかもしれません。
しかし、実際多くの僧侶はこういったイメージはあるのではないかと思います。
「僧侶の世界」と「現代人の世界」は分離した世界ではないけれども、一般人として働いている人たちの世界や価値観に対して僧侶側からは関わっていきづらい感覚をもっている僧侶も多いのではないでしょうか。
僧侶からみると、例えるならこちらの声は向こう側に届かない見えない壁があるかのようです。
「新しいiPhoneがでたぞ!」
みたいな温度感で仏教に関心を持つ人はほとんどいませんし、お寺でいろんな取り組みをしても不発に終わることはよくあります。
現代人には仏教を伝えるのは難しいのかな・・・
どうすればお寺や仏教の良さが伝わるのだろうか・・・
と悩んでいるところに、若新さんの得度というニュースが入ってきたのです。
最先端の現代人が僧侶の世界に
ご本人がどのように感じているかは別として、地方に住む僧侶からみれば若新さんは現代文化人の最先端にいる方のように見えています。
メディア出演も多く、テレビや芸能人や、最先端の情報や、政治課題や・・・
現代人としてもっておきたい情報の渦の真っ只中にいる方が、仏教というものに興味を持っている。
そして、ただ仏教について言及するだけじゃなく、現代社会に対して影響力を持ったまま、われわれの超えられない壁を超えてこちらの世界に来てくれたという感じでしょうか。
とにかく、自分たちではなかなか突破しづらかったものに、ひとつの風穴やヒントや道筋のようなものがついたような感覚でした。
言葉の変換について
対談の内容を紹介するわけにはいかないので、ちょっと説明が難しいのですが・・・
対談の中で仏教の言葉を若新さんが「自身の理解はこのように受けとめている」という言い方で解説されていたことも印象的でした。
これは良い悪いということではなく、仏教用語を論理構造やシステムとして人にはたらく効能を理解するということと、信仰としてある種の神秘性を感じながら受け止めるということの違いについてひとつのヒントになるのかなと。
現代人にとってはある種の哲学や考え方として仏教を理解する方がわかりやすいとはぼく自身も思うことです。
しかしそれに対して、仏教はそういう風に自分の都合に合わせて利用することじゃあないんだ派の考え方もあり、どのようにその溝を埋めるのかのヒントになるような気がしました。
あと、ロックと仏教の話なんかも話題の中にありましたが、まったく同感です。
割とまじな話、ザ・ブルーハーツやサンボマスターを聞いていると「ロックンロール」を和訳するとしたら「南無阿弥陀仏」ではないだろうかと思ったりする。
— へんも|布教使.com管理人|善照寺住職|ブロガー|フットバッグパフォーマー|三原貴嗣 (@henmority) April 6, 2018
ファッションとしての僧侶
対談の中ででてきた言葉のひとつで「ファッションとしての僧侶」もちょっと気になった言葉だったので考えてみました。
ファッションという言葉をどう定義するのかによって、誤解されるちょっと扱いの難しい表現かもなぁと気になった言葉です。
たしかにただの流行や軽いものとしてファッションという言葉をとらえるなら、なにか仏教をないがしろにしているように嫌悪感を持つ方もいるだろうなとは思ったけれども・・・
ぼくにとってはなんかわかる、という感じです。
ファッションとして自分がどんな服を着るかは、ある種の精神性の発露だと思います。
モードが好きとか、ゴスロリが好き、とか。
そういう点で言い換えるとするなら、仏教のスタイルで生きる、とか人生を仏教で荘厳(しょうごん)すると言えば良いのでしょうか。
日々いろんな出来事に振り回され、日によって変わる心の動きとは別のレイヤーとして、仏教的精神性をベースにした生活を確立するととらえるなら納得しやすいのかなと。
あってるかどうかわかりませんが。
なんせ、すごく刺激的な時間でした
いろいろととりとめのないことを書いてはみたものの、あくまで頭の中でぐるぐるしていたことをなんとなく言葉になおしてみたというだけのことなので、これが何だということはありません。
とにかく、なにかお寺や僧侶が現代社会にとってどんなアプローチができるのか、その切り口や視点のヒントがつまった対談でした!
また、この対談は今後も開催されるそうなので興味がでた方はお知らせを見逃さないようにおふたりのTwitterをフォローしておきましょう!
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