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[LINEでわかる歎異抄]第6条、親鸞は弟子を1人も持たない!?

なかなか好評だった歎異抄第9条をLINE風にしてみた。

前作の評判が良かったので、続いて歎異抄第6条も作ってみました。

原文では弟子の唯円が「親鸞聖人はこうおっしゃってたよ」というように書いてありますので、実際には2人の「やり取り」ではありません。

ですが、もしLINEしてたらシリーズなので2人で会話している感じにして意味がわかるよう書き下しました。

この条は親鸞聖人が弟子というものについてどういう立場で考えていたのかがよくわかる箇所です。

最後に原文も載せてありますので、意味を想像しながら読んでみてくださいね。

LINE風歎異抄第6条

唯円
お師匠さま、お師匠さま〜
親鸞
誰や誰や、
新喜劇みたいに人のこと呼ぶのはw
親鸞
しかも師匠じゃないし。
唯円
え!?
親鸞
お前なんか弟子じゃねーし。俺の弟子なんか一人もおらんし。
唯円
・・・・そんな・・・・!
親鸞
だって・・・・
唯円
・・・・だって?
親鸞
おなじ念仏の仲間やん♡
唯円
もう///
親鸞
はしゃぎすぎた
唯円
親鸞
それはそうと、ほんまのところ「仲間」やのに、自分の弟子や誰の弟子やなんて意味ないことやん。
唯円
どういうことでしょう??
親鸞
唯円君、念仏してる??
唯円
してますよ??
親鸞
もしさ、俺が「お前念仏しろ〜!」って俺の力で念仏するようになった人がいたらそれは俺の弟子と言ってもいいかもしれんけど・・・
親鸞
確かにそれはきっかけの1つかもしれへんけど、「阿弥陀さまのはたらき」で念仏するようになった人に対して「あいつ俺の弟子」なんてのはよう言わんよね。
唯円
なるほど
親鸞
世間には弟子をとったとられたなんて、揉めてるやつもようけおるけど
親鸞
縁があれば一緒に歩むし、はなれるべき縁があれば離れる。ただそれだけのことやん?
唯円
そうですねぇ
親鸞
やのに、わしの弟子をやめて他の人のところへ行ったら往生なんか出来んなんて言うのは言語道断、大事なことがわかってない!
親鸞
そもそも、その念仏が大事って気持ちはどこから起こったの?
唯円
う〜んそう言われるとよくわかりませんねぇ
親鸞
100%自分で作り出したり、発見したものとは言えんでしょ?
唯円
確かに・・・
親鸞
そういうのを「如来よりたまわりたる信心」というわけ。
親鸞
阿弥陀さまから頂いた信心を、やれ自分が起こしたものかのように考えたり、人に与えたり、取り返そうなんていうのはおかしな話だ、ということよ。
唯円
なるほど・・・・深いっす。
親鸞
やから、お念仏をして仏さまのはたらきにかなった歩みをしている人はみな同じ仲間やし、仏の恩ということもだんだんわかってくるやろうし、それを知るきっかけとなった師匠の恩ということもわかってくるってもんよ。
親鸞
ということで、すごいのは阿弥陀さまであって、俺じゃあないわけ。

勝手に師匠と思ってくれてるのはそれはそれでいいけど、こっちは自分が教えた弟子だとは思っとらん、ということや。

唯円
わかりました!お師匠さま!
親鸞
うるせえ、てめえなんか弟子じゃねぇ!w
唯円
南無阿弥陀仏
親鸞
南無阿弥陀仏

謙虚に生きるということ

念仏の道を歩むということを一言でいうならば、どこまでも「謙虚に生きる」ということです。

人間は知れば知るほど、思い上がり、傲慢になって「偉く」なっていきます。

特に師匠や先生なんて呼ばれ続けてたら「えらもんさん」一直線ですね。

ところが親鸞聖人の態度というのは、知識もものすごくあるのに

親鸞
自分も一緒に歩ませてもらっている仲間ですよ。

という立場をとっておられます。

ですから、親鸞聖人は門人を呼ぶときに仲間という意味の同朋(どうぼう)、同行(どうぎょう)に「御」をつけて「御同朋、御同行」と呼んでいたそうです。

親鸞
おいっ!弟子っ!

なんて言い方とは全然ちがいますね。

念仏の道は知らず知らず「えらもんさん」になってしまうわが身の危うさに気づき、頭が下がっていく世界

みんな等しく仏の弟子であって「偉くなっていく道」ではないんやで、ということを親鸞聖人はおっしゃっています。

他の条にも興味が出た方はLINEわかる歎異抄シリーズをまとめたページもぜひどうぞ!

歎異抄6条原文

専修(せんじゅう)念仏のともがらの、わが弟子、ひとの弟子という相論の候ふらんこと、もつてのほかの子細なり。
親鸞は弟子一人(いちにん)ももたず候ふ。
そのゆゑは、わがはからひにて、ひとに念仏を申させ候はばこそ、弟子にても候はめ。
弥陀の御もよほしにあずかつて念仏申し候ふひとを、わが弟子と申すこと、きはめたる荒涼(こうりょう)のことなり。
つくべき縁あればともなひ、はなるべき縁あればはなるることのあるをも、師をそむきて、ひとにつれて念仏すれば、往生すべからざるものなりなんどいふこと、不可説なり。如来よりたまはりたる信心を、わがものがほに、とりかへさんと申すにや。
かへすがへすもあるべからざることなり。
自然(じねん)のことわりにあいかなはば、仏恩をもしり、また師の恩をもしるべきなりと云々。

(真宗聖典注釈版P835)

参考文献