仏さまに学ぶ仕事論。1番大切なことはいきいきと生きること。

仏さまの「お仕事」って何かわかりますか?

生きるべき道を指し示したり、光で照らしだしたり、いろいろやることはありますがざっとまとめて言うなら人々を救うというお仕事をされています。

過去から現在、そして未来の人までの全ての人々を救うというと相当な仕事量だと思います。

24時間365日、絶えず休まず人々を救う仕事をするって、その労働条件だけ考えると相当ブラックな仕事ですよ。

今日はそんなめちゃめちゃ働いている仏さまに学ぶ「働き方」のお話。

仏さまは遊ぶように働く。「遊」というのは「自由自在」ということ

仏さまは「遊ぶように」人々を救うというようにいわれます。

この「遊」という字は「自由自在である」、「主体性をもっている」、そして「楽しくて仕方ない」という意味を含んでいます。

讃仏偈の最後には

仮令身止 諸苦毒中 我行精進 忍終不悔

(たとひ身をもろもろの苦毒のうちにおくとも、わが行、精進にして、忍びてつひに悔いじ)

私訳:人々を救うためにむっちゃ辛い状況になっても、それが自分のやるべき仕事だから何にも後悔なんか無いぜ!というか、むっちゃやりがいあるし頑張るぜ!

ということが書かれています。

仏さまの働く量ってのは、人間がちょっと近くの人の手助けをする、なんてのと規模が違うわけですよ。

仏さまはとてつもない仕事量をこなしているかもしれませんが、本人にとったら好きなように、まるで遊んでいるかのようにストレスフリーに人々を救っていくのだと表現されます。

他にも正信偈の中にも「遊」という表現がでてきますね。

遊煩悩林現神通 入生死園示応化

(煩悩の林に遊んで神通を現じ、生死の園に入りて応化を示すといえり)

私訳:阿弥陀の世界(浄土)にうまれたものは阿弥陀仏と同レベルの力をもって、煩悩がいっぱいの迷いの世界にかえってきて、遊ぶように自由自在に人々を救うのだ!

仏教というと我慢・辛抱というイメージが強いかもしれませんが、こうやって仏さまの働く様子を考えると、「苦労して辛い思いをして、いのちをすり減らしながら働くのが良い」とは書かれていません。

むしろその逆で、遊ぶように楽しみながら力を発揮するという表現がなされています。

働くのはつらく厳しいことじゃないとだめ?

働くというのはつらく・厳しい・苦痛をともなわないと仕事じゃないと思っている方も多いかもしれません。

どういうわけか日本人の「おしん」的メンタリティとでもいいましょうか、つらい・苦しい・厳しい状況に身を置くこと自体が美徳とされ、そこから生まれる結果は意外とどうでもいいという謎の現象をよく見かけます。

我慢すること自体が目的になっていて、何のための我慢や辛抱か?が抜け落ちているという本末転倒な精神論ですよね。

辛いことや苦しいことをやっているから自分はものすごくちゃんとやっている気になるという勘違いをおこします。

それをさらにこじらせると、楽しそうに仕事をしている人を「そんなの仕事じゃない!働いたことにならない!」なんてわけのわからない非難をするようになります。

本来的に「働く」ということと「つらい・苦しい」ということは同義の言葉ではありません。

お釈迦様も苦行をやめたよ。

お釈迦様は「人が生まれ、年をとり、病気になって、いずれ死ぬ。」ということをどのように受け止めればいいのかという悩みの中から人が歩むべき道を求められました。

そして、その歩みの中で6年間苦行を重ねたのですが、ある時苦行はやめるんですよね。

お釈迦さま
あれ?意味ないやんこれ。

って。

お釈迦様は別に誰かにやらされてその道を歩んだわけではないですよね。

自分自身の人生を生きるために、そして自分の目標に到達するために苦行が必要だと思ったから苦行に取り組み、限界ぎりぎりまでやってみて意味がないとわかったからやめたんです。

ところが、

お釈迦さま
ここまで辛いことやったんやから、意味があるはずやっ!

という風に執着していたらこの世に仏教というものは無かったかもしれませんね。

目標達成のためには適切な課題とステップを踏んでいくことが重要であり、つらく・苦しい・厳しいことの総量が後の成果を決めるのではありません。

いのち輝く仕事をしよう。

2016年には電通の女性社員が過酷な業務体系から自殺という道を選ばざるを得なくなるまで追い込まれるということがありました。

日本全体を見れば、セクハラ、パワハラ、モラハラ、低賃金、長時間労働という過酷な状態で働いている人たちもたくさんおられることと思います。

それは仕事ではなく苦役です。

人生をすり減らし、耐えに耐えたのに振り返ってみると自分が何をやってきたのかとむなしく終わるそれではいのちがもったいない。

働くということを法律的にどうかということはちょっと横に置いておいて、本質的には長時間労働、過酷な労働環境はその「時間や環境がダメだというのではない」んです。

人のいのちや生き方が軽んじられ、尊重されないという点がダメなのです。

好きな仕事で、自分の力が発揮できて、楽しくてしょうがなくて、これをやっていれば自分のいのちを最高に輝かせられる仕事だ!という納得があれば、何時間でもどんなに働いたってかまわないんです。

もうずっと働いていたい、もっと取り組みたい!という感じですね。

それは長時間だろうがなんだろうが、最高に楽しい時間だと思うのです。

まぁ物理的に疲れて体力が尽きるってのはまた別の問題ですが。

精神的に充足している→いい仕事ができる→価値がうまれ、喜ぶ人ができる。

という状態を循環させることができれば、そしてそこには遊ぶと働くということに明確な境界線はなく、自身の力を発揮してその人の人生を輝かせられているということなのでしょう。

辛かったらやめたらいい

芸能や職人など技能を得るために弟子働きをするなんてのは、とても大事なことだと思います。

そういうことじゃなくて、人間として尊重されないような環境であればさっさと場所を変えて新たに取り組む方が生産的です。

現代は本人が知識さえつければいくらでも可能性があります。

お坊さんがいうのもなんなんですが、こういうテックキャンプみたいなオンラインでプログラミングなどwebで仕事をする感覚や技術を養ったらどこでも働けるようになりますよね。

現在の仕事が忙しくて転職活動ができないなんて人も、facebookアカウントを利用するnexstarなどを使えば仕事を探すこともできます。

これからは本当にどこにいても働ける時代が来ますし、インターネット社会で働ける技能を持っているとどこでも活躍できる可能性が広がります。

地方の中小企業なんてweb関連の事業や広報をしようにも、できる人がいなくて困っているところもいっぱいありますもんね。

自身の今の仕事が苦痛で、生きていけないということがあるのなら決して無理はしないでください。

場所を変えてもいいし、働き方をかえてもいい。

何が1番大事な事かというと、いのちを完全燃焼させ人生をいきいきと生きること。

ひとつの道を極めることももちろん大切ですが、固執していのちをすり減らしてはもったいない。

いろんな可能性を探してみてくださいね。